国語記述演習(高校):追加分


2014年 早大法学部 国語三番に追加してください。
 問1を使った記述演習
「齋藤純一 『政治と複数性』」より

C・シュミットは、『政治的なものの概念』において、政治を他から識別する指標を「友と敵」の区別に求めた。「政治的な行動や動機の基因と考えられる、特殊政治的な区別とは、友と敵という区別である」。この区別には、「表象の政治」を特徴づけるいくつかの重要な点が含意されている。「友」の定義が「敵」の定義に依存していることがその一つである。敵を同定する行為によって、友=「われわれ」のアイデンティティは構成されるのでありその逆ではない。或る他者を敵として産出しつつ、それを否定することは、自らを肯定的に同定するための構成的な条件をなしている。第二に、この「敵」の同定は集合的におこなわれる。政治的な意味での敵は「公敵」「抗争している人間の総体」である。外敵であれ、それに伴って定義される「内敵」であれ、敵として包括される人びとの問の差異は意味をなさない。第三に、「敵」は実体化、本質化される。
「敵とは、他者・異質者にほかならず、その本質は、とくに強い意味で、存在的に、他者・異質者であるということだけで足りる」。「敵」は、「存在的に」つまり言説の外部に「他者・異質者」として表象されるのである。

シュミットのいう「政治的なもの」の核心をなすのは、他者の集合的アイデンティティを言説以前あるいは言説を超えた対象として定立し、それを否定することによって、自らのアイデンティティを肯定的に構成することである。ある批評家の言葉を援用すれば、「対形象化の図式」、すなわち自らが形象化されるためにはネガティヴな他者が対称的に形象化されねばならない、同質的な「我ら」がつくられるためには同質的な「彼ら」がつくられねばならないという機制が、表象の政治には不可欠のものとしてはたらいている。この内と外を分ける表象の政治のはじまるところに、アーレントは「政治的なもの」の終わりをみる

シュミットは、友-敵の抗争が最後には「他者の存在そのものの否定」、したがって友l敵の区別そのものの廃棄に向かわざるをえないことを「予言」したが、そうした存在そのものの廃棄(絶滅)に先行して、それを用意する政治的な死があったことをアーレントは強調する。ユダヤ人に対する「最終的解決」のプロセスが起動したのは、「彼らが全人間世界における「余計者」あるいは場所のない者であると立証されたとき」であった。ユダヤ人はまず政治的生活を奪われた -彼らに応答する他者の不在が証明された- うえで、あらためて「生きるに値しない」と宣告されたのである。「場所なき者」とは、「人間がその行為と意見にもとづいて他者から判断されるという関係の成り立つシステム」から排斥された者のことである。彼/彼女たちは、「その意見と行為にもとづいて」は応接されない。「何を語ったか」「何を行ったか」ではなく「何であるか」によって、個々の言説ではなく集合的な表象(「よからぬ人種」等々)によって判断されるのである。「語られたことの意義の喪失」は「リアリティの喪失」を惹き起こし、彼/彼女をオブスキュリティの状態すなわち政治的な死へと放逐する。アーレントのこの見方は、表象と現われとの聞に負の相関があることを示唆している。人びとが現われうるためには、他者がそれに注意を向けることを必要とするが、表象はこの注意を意図的に廃棄する。表象は他者が「何」であるかを形象化し、表象された他者はその固定化された形象のもとでのみまなざされる。そうした形象のみが可視的になるにつれ逆に、一人ひとりの言葉と行いにおける現われは不可視化されざるをえない。現われは表象が支配的になるにしたがって封じられていくのである。


下線部 「この内と外を分ける表象の政治のはじまるところに、の終わりをみる」とあるが、ここで言うアーレントは「政治的なもの」「「政治的なもの」の終わり」とは、どのようなことか。100字(選択肢の文は使わないこと)以内。

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