読書


そうこうしているうちに、入試の季節が終わろうとしています。
合格や不合格を報告する塾生諸君の顔や声が頭から離れません。

これを断ち切るべく、本を読みます。

その1 
 1978年に、モントリオールで、ゴダールが行った映画史の講義録です。
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「私はいつも他人の言葉をコピーしてきました。私が最初にコピーしなければならなかったのは、すべての人の場合と同様、パパとママの言葉です。それに、私は、複写(コピー)と印刷(感化)の歴史に興味をひかれます。また、私は今、人々とは違って、《感化すること》と《自分を表現すること》とを区別して考え始めています。人々は、たとえば何人かの人がかわるがわる自分を表現すれば、それでコミュニケーションが成立すると考えています。でも、人々は音楽をもちいては、それほどコミュニケーションをはかることはできません。

・・・中世においては、人々や動物は今とはまったく違ったやり方で互いにコミュニケーションをはかつていたのです。人々は今ではコミュニケーションは大いになされていると考えていますが、実際はそうでもありません。人々がほかの人たちと接触をもつ場所はどこかと言えば、交通機関です。でも飛行機や列車のなかなど、人々が集まる場所では、だれも互いに話しあおうとはしません。人々はただ、コミュニケーションの手段のなかにつめこまれているだけなのです。映画館のなかでも、人々は黙りこんでいます。スクリーンのうえでしゃべる人たちの言葉を聞いているだけです。映画館を出ても、自分の知らない隣人にあえてなにかを話しかけようとはしません。しかも人々は反対に、話しかけないことが表現することだと思い込んでいるのです。

私はこう思うのです。《なかから外に出すこと》である《表現》と《外からなかに入れること》である《感化》の間には、ある違いが、あるいは、ある関係があると。コミュニケーションが可能になるのは、なかに入れられたなにかがもう一度外に出されるときなのです。そして、これこそが、今私が意識的により明確なやり方でしようとしていることなのです。そして、私は、人々は概して、こうしたことにほとんど関心をもっていないということに気付きました。人々は反対に、自分を表現したいとばかり考えているのです。」
                              (p.091~092)

その2
 「時間論」を易しくお勉強 ・・・SONY READERSの画面
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その3
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