「とはずがたり」の質問へ


次の文章は『とはずがたり』の一部である。作者二条はかつて後深草院に仕える女房であったが、宮廷を退き尼となって十七年ほどが過ぎた。これを読んで後の問いに答えよ。

弥生の初めつ方、いつも年の初めには参りならひたるも忘られねば、八幡に参りぬ。睦月のころより奈良にはべり、鹿のほか便なかりしかば、御幸とも誰かは知らむ。例の猪鼻より参れば、馬場殿開きたるにも、過ぎにしこと思ひ出でられて、宝前を見まゐらすれば、御幸の御しつらひあり。「いづれの御幸にか」と尋ねまゐらすれば、「遊義門院の御幸」といふ。いとあはれに、参り会いまゐらせぬる御契りも、去年見し御面影さへ思ひ出でまゐらせて、今宵は通夜して、明日もいまだ夜に、官めきたる女房のおとなしきが所作するあり。「誰ならむ」とあひしらふ。得選おとらぬといふものなり。いとあはれにて、何となく御所ざまのこと尋ね聞けば、「みな昔の人は亡くなり果てて、若き人々のみ」と言へば、いかにしてか誰とも知られたてまつらむとて、御宮巡りばかりをなりとも、よそながらも見まゐらせむとて、したためにだにも宿へも行かぬに、「事なりぬ」と言へば、片方に忍びつつ、よに御輿のさま気高くて、宝前に入らせおはします。

傍線部1「いかにしてか詳とも知られたてまつらむ」の
解釈として最も適切なものを、一つ選べ。

どうにかして遊義門院に私が誰であるかをおわかりいただきたいものだ。
どうにかして若い女房たちに私が誰であるかを知っていただきたいものだ。
どうにかして遊義門院に私が誰であるかを女房から伝えてもらいたいものだ。
どうすれば若い女房たちを通して遊義門院にお会いできるだろうか、いや無理だ。
どうすれば遊義門院に私が誰であるかわかっていただけるだろうか、いや無理だ。

の選択肢がどれも腑に落ちません。




~といふものなり。いとあはれにて、何となく御所ざまのこと尋ね聞けば、「みな昔の人は亡くなり果てて、若き人々のみ」と言へば、いかにしてか誰とも知られたてまつらむとて、御宮巡りばかりをなりとも、よそながらも見まゐらせむとて

傍線部の前後で、論理が(原因と結果)成り立つように訳出する。

=という者である。とても懐かしくなって、それとなく御所の様子を尋ねると、「みんな昔の人は亡くなってしまって、(今は)若い人々ばかりです」と言うので、(それでは、)どうにかして・どうやったら(自分が)誰であるかを(遊義門院に)わかっていただくことができるだろうか。(昔の人がいないのなら、私のことをわかってくれる人などいない、そうであるのならば、)せめてお宮巡りなさるのを遠くからでも拝見していよう、と思って、

すると、「みな昔の人は亡くなり果てて、若き人々のみ」→「私を知る人はいない」が、証拠1。
証拠2として、「御宮巡りばかりをなりとも、よそながらも見まゐらせむとて」の「なりとも」と「ながらも」=譲歩に見える。
また、3つ目として、選択肢の「いかにして」の訳が、「どうにかして」と「どうすれば」に分かれていることが、
出題者の「作問のきっかけを」を白状している、と思います。
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