高2:入試問題演習:資料「とはずがたり」


2016年 早大 社会科学
国語  問題2の引用部分(青文字)


さても、安藝國嚴島の社は、高倉の先帝も御幸し給ひける、跡の白波もゆかしくて、思ひ立ち侍りしに、例の鳥羽より船に乘りつつ、河尻より海のに乘り移れば、波の上の住まひも心細きに、ここは須磨の浦と聞けば、行平中納言、藻鹽垂れつつわびける住まひもいづくのほどにかと、吹き越す風にも問はまほし。九月のはじめのことなれば、霜枯れの草むらに、鳴き尽したる蟲の聲、絶
え絶え聞えて、岸に船着けて泊りぬるに、千聲萬聲の砧の音は、夜寒の里にやとおとづれて、波の枕をそばだてて、聞くも悲しき頃なり。明石の浦の朝霧に島隱れ行く船どもも、いかなる方へとあはれなる。光源氏の月毛の駒にかこちけん心の中まで、殘る方なく推し量られて、とかく漕ぎ行くほどに、備後國鞆といふ所に至りぬ。


何となく賑ははしき宿と見ゆるに、たいが島とて離れたる小島あり。遊女の世を遁れて、庵並べて住まひたる所なり。さしも濁り深く六つの道にめぐるべき營みをのみする家に生れて、衣裳に薫物しては、先づ語らひ深からんことを思ひ、わが黒髮を撫でても、誰が手枕にか亂れんと思ひ、暮るれば契りを待ち、明くれば名殘を慕ひなどしてこそ過ぎ來しに、思ひ捨てて籠りゐたるもありがたくおぼえて、「勤めには何事かする。いかなる便りにか發心せし」など申せば、ある尼申すやう、「われはこの島の遊女の長者なり。あまた傾城を置きて、面々の顔ばせを營み、道行く人を頼みて、とどまるを喜び、漕ぎ行くを嘆く。また知らざる人に向ひても、千秋萬歳を契り、花の下露の情に酔ひを勸めなどして、五十に餘り侍りしほどに、宿縁や催しけん、有爲の眠り一度醒めて、二度故郷へ歸らず、この島に行きて、朝な朝な花を摘みにこの山に登る業をして、三世の佛に手向け奉る」など言ふも、うらやまし
。これに一、二日とどまりて、また漕ぎ出でしかば、遊女ども名殘惜しみて、「いつ程にか都へ漕ぎ歸るべき」など言へば、「いさや、これや限りの」などおぼえて、 いさやその幾夜明石の泊りともかねてはえこそ思ひ定めね

かの島に着きぬ。漫々たる波の上に、鳥居遙かにそばだち、百八十間の廻廊、さながら浦の上に立ちたれば、おびたたしく船どももこの廊に着けたり。大法會あるべきとて、内侍といふ者、面々になどすめり。九月十二日、試樂とて、廻廊めく海の上に舞臺を建てて、御前の廊より上る。内侍八人、皆色々の小袖に白き湯卷を着たり。うちまかせての樂どもなり。唐の玄宗の楊貴妃が奏しけ
る霓裳羽衣の舞の姿とかや、聞くもなつかし。會の日は、左右の舞、青く赤き錦の装束、菩薩の姿に異ならず。天冠をして簪をさせる、これや楊妃の姿ならんと見えたる。暮れ行くままに樂の聲まさり、秋風樂ことさらに耳に立ちておぼえ侍りき。暮るる程に果てしかば、多く集ひたりし人、皆家々に歸りぬ。御前も物淋しくなりぬ。通夜したる人も少々見ゆ。十三夜の月、御殿の後の深山より出づる景色、寶前の中より出で給ふに似たり。御殿の下まで潮さし上りて、空に澄む月の影、また水の底にも宿るかと疑はる。法性無漏の大海に随縁眞如の風をしのぎて、住まひはじめ給ひける御心ざしも頼もしく、本地彌陀如來と申せば、「光明遍照十方世界、念佛衆生摂取不捨」、漏らさず導き給へと思ふにも、濁りなき心の中ならばいかにと、われながらもどかしくぞおぼゆる。これには幾程の逗留もなくて、上り侍りし。船の中に、由ある女あり。「われは備後國和知といふ所の者にて侍る。宿願によりて、これへ參りて候ひつる。住まひも御覽ぜよかし」など誘へども、「土佐の足摺岬と申す所がゆかしくて侍る時に、それへ參るなり。歸さに訪ね申さん」と契りぬ。かの岬には、堂一つあり。本尊は觀音におはします。隔てもなく、また坊主もなし。ただ、修行者、行きかかる人のみ集まりて、上もなく下もなし。いかなるやうぞと言へば、昔一人の僧ありき。この所に行ひてゐたりき。小法師一人使ひき。かの小法師、慈悲をさきとする心ざしありけるに、いづくよりといふこともなきに、小法師一人來て、時・非時を食ふ。小法師、必ずわが分を分けて食はす。坊主いさめて言はく、「一度二度にあらず。さのみ、かくすべからず」と言ふ。また朝の刻限に來たり。「心ざしはかく思へども、坊主叱り給ふ。これより後は、なおはしそ。今ばかりぞよ」とて、また分けて食はす。今の小法師言はく、「このほどの情、忘れがたし。さらば、わが住みかへ、いざ給へ、見に」と言ふ。小法師語らはれて行く。坊主あやしくて、忍びて見送るに、岬に至りぬ。一葉の舟に棹さして、南を指して行く。坊主泣く泣く、「われを捨てていづくへ行くぞ」と言ふ。小法師、「補陀落世界へまかりぬ」と答ふ。見れば、二人の菩薩になりて、舟の艦舳に立ちたり。心憂く悲しくて、泣く泣く足摺をしたりけるより、足摺岬といふなり。岩に足跡とどまるといへども、坊主は空しく歸りぬ。それより、隔つる心あるによりてこそ、かかる憂きことあれとて、かやうに住まひたりと言ふ。三十三身の垂戒化現これにやと、いと頼もし。安藝の佐東の社は、牛頭天王と申せば、祇園の御事思ひ出でられさせおはしまして、なつかしくて、これには一夜とどまりて、のどかに手向けをもし侍りき。

讚岐の白峯・松山などは、崇徳院の御跡もゆかしくおぼえ侍りしに、訪ふべきゆかりもあれば、漕ぎ寄せて下りぬ。松山の法華堂は、如法行ふ景氣見ゆれば、沈み給ふともなどかと、頼もしげなり。「かからん後は」と西行が詠みけるも思ひ出でられて、「かかれとてこそ生れけめ」とあそばされける古への御事まで、あはれに思ひ出で參らせしにつけても、 物思ふ身の憂き事を思ひ出でば苔の下にもあはれとは見よ

さても、五部の大乘經の宿願、殘り多く侍るを、この國にて、また少し書き參らせたくて、とかく思ひめぐらして、松山いたく還からぬほどに、小さき庵室を尋ね出して、道場に定め、懺法・正懺悔など始む。九月の末のことなれば、蟲の音も弱り果てて、何を友なふべしともおぼえず。三時の懺法を讀みで、「慚愧懺悔六根罪障」と唱へても、まづ忘られぬ御言の葉は、心の底に殘りつつ、さてもいまだ幼かりし頃、琵琶の曲を習ひ奉りしに、賜はりたりし御撥を、四つの緒をば思ひ切りにしかども、御手なれ給ひしも忘られねば、法座の傍に置きたるも、  手になれし昔の影は殘らねど形見と見れば濡るる袖かなこのたびは、大集經四十卷を二十卷書き奉りて、松山に奉納し奉る。經の程の事は、とかくこの國の知る人に言ひなどしぬ。供養には、一年、「御形見ぞ」とて、三つ賜はりたりし御衣、一つは熱田の宮の經の時、誦經の布施に參らせぬ。このたびは、供養の御布施なれば、これを一つ持ちて、布施に奉りしにつけても、 月出でん暁までの形見ぞとなど同しくは契らざりけん
御肌なりしは、いかならん世までもと思ひて、殘し置き奉るも、罪深き心ならんかし。

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