戸山高校の入試問題(国語)をみて思ったこと その1


出題者は何を見ようとしているのか。


まず、この文章を読んでいただきたい。

例1
平成22年度 上智大学文学部
入試問題:国語1番
吉本隆明 「『死霊』の創作メモを読んで」

-----引用

埴谷雄高が戦後、本格的に『死霊』の影絵の世界から抜け出して現実のこの世界で、現実的な理念の形で「自同律の不快」を展閲したことが二、三度あった。わたしが鮮やかに覚えていて感銘をうけたのは、いわゆる「モラリスト論争」と呼ばれている花田清輝と「近代文学」派の固有同人との論争のなかでの埴谷雄高の「永久革命者の悲哀」である。これはたしか「群像」誌上だった気がする。もう一つは佐伯彰一や村松剛などの主宰する同人誌上での埴谷雄高と三島由紀夫との対談の上での論争である。細部は覚えていないが、どこに感銘したかははっきり記憶している。「永久革命者の悲哀」のなかで埴谷は〈たとえクモの巣のかかったような古ぼけた部屋にごろごろしていても、革命者は革命者である〉と宣言した。埴谷雄高はここではじめて前衛組織を名のる集団内の階級温存にふれ、大げさにいえば、ソ連邦派のスターリン批判や連邦崩壊に先立つ「スターリン体制批判」に先立って世界の先駆をなした。この稿に即して言えば、埴谷雄高の影絵の世界の、わたしにとって象徴ともいうべき、隅田川(大川)の架け橋清洲橋が、はじめて影絵の世界を抜け出した思いだった。もちろん、クモの巣がかかった部屋でごろごろしていても革命者は革命者だという埴谷雄高の確かな断言は、レ-ニンは一冊のレ-ニン全集のなかにしか存在しないという断言とともに影絵の世界から出てみせた痩身(病身?)のかれの晴れ姿だった。マルクスが論敵に対してテーブルを叩いて「無知が栄えたためしがない」と断言したのと同じ思いだったにちがいない。路を歩きながらこの論争について花田清輝に「君はどう思うかね」と尋ねられたとき、「埴谷さんの考え方がいいと思います」と答えたのを覚えている。花田清輝は悔然とした面持ちで「うん」と言っただけだったと思う。

-----引用終わり


どのような高校生が、上記のような「特殊な」文章を読みこなせると言うのだろう。

確かに註が付いてはいる。それでも、これは無理でしょう。いや、無理です。
この固有名詞の多さは虐待に近い。



ところがである。



設問を読むと、実は何ら「本質的な?」質問はなされていないことがわかる。
問いかけ方・選択肢のあれこれを「かけひき」として捉えれば、答らしきものが見えてくる。

問1
「クモの巣のかかったような古ぼけた部屋」とは、どのような場所か。
  a 誰からも見向きもされず忘れ去られた場所
  b 自分を捕らえて食う天敵が棲む場所
  c 今にも壊れそうな危険な場所
  d 薄汚れた者が棲む場所
 
   一体、a以外の選択肢を選ぶ者がいるだろうか。

いちいち取りあげないが、他の設問も似た「形状」をしている。これは確信犯なのだ。




そこで、
次の文章、



例2(戸山高校にリンク)

平成24年度 都立戸山高校
入学試験問題:国語4番
吉本隆明「詩的乾坤」より

------引用

「読むということは、ひとが云うほど生活のたしになることもなければ、社会を判断することのたしになるものでもない。また、有益なわけでも有害なものでもない。生活の世界があり、書物の世界があり、いずれも体験であるには違いないが、どこまでも二重になった体験で、どこかで地続きになっているところなどないから、本を読んで実生活の役に立つことなどはないのである。また、世界を判断するのに役たつこともない。書物に記載された判断をそのまま受け入れると、この世界はさかさまになる。」

「わたしは、文章を書くことを専門とするようになってからも、できるだけそういう人たちだけの世界に近づかないようにしてきた。」

------引用終わり

わたしが言いたいのは

例1は入試問題として果たして適切だろうか、という一点である。(つづく)
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